筒になりたい、と思う。
長いこと、良い俳優とはいったいなんなのだろうかということを考えている。
うまい、ではなく、良い、俳優。
『吹けよ春風』第1号のごあいさつ記事にある「読んでいただいた方の部屋に春風が吹くような、そんなZINEになれば良いなぁと思っております。」からは程遠いようすの記事になってしまった。
大枠を書き終わって読み返して、風、全然吹かなそうウケる〜〜〜って、自分で思う。
「筒になりたい」って、なに?っても思うし。
なに?って思うけど、でも、本気でそう考えている。
平野鈴と申します。鈴と書いて「れい」と読みます。
馬鈴薯とか、鉄亜鈴とかと同じです。
俳優です。
筒になりたいと思っています。
“良い俳優”とは、いったいなんだろうか。
もちろんひとによって“良い”の基準も意味も違うことはわかっている。それを踏まえて、自分にとって“良い”と思えるものを見つけていけたらなあと考えている。
このことを考えるときには必ず、ひとりの俳優のすがたを思い浮かべる。
さまざまな作品をみるときに、「あ、このひとはもしかしたら筒の人なのではないか」と感じることもあるけれど、今の自分にとっての理想の筒について考えると、決まっていつも、彼の姿が浮かぶ。
2012年に世田谷パブリックシアターで再演された『浮標(ぶい)』。
わたくしはどんなに感激を覚えたものでも次々と忘れていってしまう──これは本当に困っているところで、いったいぜんたい何故そんなことが起きるのかといつも悩んでいる──のだけれど、この演劇で目撃した田中哲司氏のことは忘れられない、どころか、いま、わたくしが目指しているひとつのかたちとして、あのときの氏の姿がある。
筒。
わたくしが観劇をしたのは、たしか東京公演の千秋楽のあたりだった。席は舞台から一番遠い壁際でのスタンディング席で、演者の表情が多少は認識できるかな、くらいの距離があった。
ラストシーン、命が消えゆく妻に向かって声を掛けながら、田中氏演じる五郎は万葉集を朗読する。
その時の、俳優・田中哲司の身体、声、その全て。
『浮標』は、せりふ量が全編通して非常に多い。そしてラストシーンの五郎に至っては、膨大な量のせりふを張り上げた声で喋り続けなければならなかった。何度もそれを繰り返してきた彼の声はひたすらに枯れていて、だから正直なところ、何を言っているのかがわからなかった。わからなかったけど、わかった。
伝わるだろうか。
どんな言葉を使っているのかを全ては聞き取れないのに何を言っているのかがわかる、ということ。そしてその凄まじさ。
これは、演劇にとって言葉とはツールに過ぎないこともあるということを、わたくしが理解するに於けるひとつの体験だったように思う。
あのとき、氏の中で何が行われていたのか、何が起きていたのかは知る由もない。聞きたいとも思わない、今はまだ。
ただわたくしには、氏自身が自身に向けている意識をどんどん手放していっているように見えたことは確かだ。
声の抑揚も音量の調節も、意識の外にあるかのようだった。
コントロールをしない。デザインをしない。ただ、ひたすらに乗りこなす。舞台の上から転がり落ちないように、作品を紡ぎ続けるために。台本をひとつの目印として。
なんだか、この世界の中で徐々にひとりぼっちになっていくさまを見ているようだった。そしてやがては空気に溶け、その空気を舞台を観ている自分が吸い込んでいるかのような、あるいは空気となったそれに飲み込まれているかのような錯覚にすら陥いる瞬間があった。
聞き取れもしない何かをわめいている、遠くの席からはつぶさな表情もわからない、ひとりの人間がそこにいるだけのはずなのに。
例えば、何かを訴えるときに大声を出すという演技の方法がある。ただ必ずしも、主張をするときや何かを強く伝えるときに、とにかく大声を使えばいいというわけではない。
聞かせるためにはでけえ声出しゃいいってモンじゃない、静かな声でも、聞かせる力のあるひとはいる。さらにはそのシーンの状況や役柄によっても、大声を出すことがそぐわないことも往々にしてある。
ふだんの会話と同じだ。
だからこそ大声を張り上げるのであれば、その必要性や必然性、そして説得力なんかが重要になってくる。
大声を使いたいのならそれが“どうして”必要なのか、を考えなければならない。なんのために大声を出すのか。どうして大声を出すのか。どうして大声になるのか/なってしまうのか。それらを理解しておくこと。
ふだんの会話と違うのはそれだ。
それをわかっていなければ演技に強度を持つことはできないし、ましてや何度も繰り返すことなどはできないのではないだろうか。
とはいえ台本には「泣きながら」「叫ぶように」などということが、既に書かれていることがある。
実際に『浮標』にはラストシーンの五郎へのト書として「殆ど叫ぶような声になっている」「狂ったような大声になっている」というものがある。
そして、そう書かれているからには基本的に、俳優はそれをしようとする。
なぜなら台本/作品が要求する状態を現す(うつす)、ということが最低限やらなければならないことであるからだ、その先へいくために。
だから俳優は、まず実現のための手掛かりとして必要な材料を台本や自身のなか或いは芝居相手などからかき集め、理解に基づいて解釈し、組み立てることから始める。そうしていくうちに必要性、必然性、説得力、そういったものたちを獲得していく。
そしてその実現のかたちとして──もっというと芝居そのものは──常に結果であることがいちばん良い状態なのではないかと、わたくしは考えている。
その人物がその言動に至るまでのさまざまを通ってそれが表に出てきている、という結果。なぜなら台本に書かれているものは、それが既にさまざまの結果だからだ。
「狂ったような大声になっている」という結果をまずは実現させるために、あらゆる手を尽くす。
そしてその上で、舞台の上/カメラの前で“ほんとうの結果”に辿り着く。
その“ほんとうの結果”に辿り着くためにはきっと、最終的には自意識を保ったままいかに自分を手放せるか、どれだけ自覚的に無意識になれるかといったようなことがヒントになる気がしている。
『浮標(ぶい)』のラストシーンで、自らひとりぼっちになっていった田中哲司のように。
あのときの田中哲司氏は、どの瞬間も結果であり、観客がそれに繋がるための筒だった。田中哲司という存在を通して、作品世界が立ち上がっては消えゆく前にまた立ち上がっていく。そして観客は、田中哲司という筒を通って作品世界に触れる。田中哲司に、ではなく、作品そのものに。
良い俳優とはこういうものだ、なんてことはまだまだ言い切れはしないけれど、それについて考えるときには、やはりこの『浮標(ぶい)』で目撃した田中哲司氏のことをいつも思う。
そのほかの作品でも、田中哲司氏はたまに、例えば言葉の抑揚が消えるといったことがあるように思う。しかしそれでも感情や状態がとても伝わってくる。むしろ、やたら賑やかに喋る俳優よりも鮮やかに。そのメカニズムを知りたい。
筒になりたい。
先日、こんなことをTwitterに書いた。
演技なんてものは、芝居なんてものは“わざわざ”やっているもので、
— 平野鈴|Rei Hirano (@reihirano01) 2022年4月12日
自分を空にしたり塗りつぶしたりする必要なんかない
自分のものではない名前やせりふを自分以外から用意されるだけで自分ではなくなるはずなのだから、自分(の経験や考えなど)を材料にすることはあれど、自分自身を削る必要などない
筒になる、ということは、一見して「空になる」に近いような響きがあるかもしれないとも思う。でもそれはちょっと違う。
ただ空っぽになりたいのとは違う。
そもそも人間は生きている以上、意図的に完全な空っぽになどはなれないはずだ。もっというと、別人になることもできないと思う。なりすます、ことはできるかもしれないけれど。
どこまでいっても自分と離れることなどできない。この身体という容れ物に依存している以上、そんなことは有り得ないのだ(そんなことができたらいいのに)。
おもしろい台本はそれだけでちからがある。こう読めばよいというのが書いてある──説明という意味ではなく──ものもあるし、だから俳優が何かを“やろう”としなくても、ただ読むだけで充分に思えてしまいそうなことすらある。
俳優としても、ふだんの自分のものではない名前や言葉を付与され自分の選択下ではない環境に置かれるだけで充分に、自分自身だけではない何かとして在れるはずだ。
しかし、ただ読む、それでは俳優の必要がない。それは芝居とは言えないのではないだろうか。
空になるというのはその身体のことを、または宿主の人権を無視しているような気がする。それはいけない。し、それでは何かが決定的に不足している。
だから筒になりたいのだ。能動的に。
全てを経てからまっさらになることで、初めて辿り着けるところがあるのかもしれない。
初めからまっさらを目指すのではなく。
でも結局、筒になることを目指したってなれやしないんだろうな。
筒になることそのものを目指したって、その先はどこにも行ける気がしない。
そもそも「筒とはこういう状態のことです」ときちんと言語化できていないうちは目指しようもないのだけれど。
ここに書いたことは、良い俳優とはなんだろうかとか演技ってなんなんだろうかということについて日頃ああだこうだと考えていることの、ほんのひと舐めでしかない。
まったく全然足りないなあと毎日思う。
それに、考えて考えて考えても、どうせ実際にやってみない限りは使い物にもならないし。
ああ、すごいひとばっかりだ。すごいことばっかりだ。
演技とは、芝居とは、なんておもしろくてへんてこな行為なんだろう。いったいなんなんだこれは。なんのためにやっているんだろうか。
別にこんなもの無くったって生命機能を維持することにはなんにも支障は来さないはずのに、それでもやっぱりこれがないと、と思ってしまう。これがないと、これがあるから、まだ、どうにか。
そう、無くてもよいはずのものを、それでもわたくしは、我々は、わざわざやっているのだ。わざわざやるからには、その事実をきちんとわかっていたい。
ちなみに、筒になるということを考えるときに、近ごろはBTSのJIMIN氏のことも思い浮かぶ。田中哲司氏もJIMIN氏も、没頭すればするほど表面上の飾り付けが消え、その存在の要素はどんどんと簡素化され、次第にひとつひとつの純度が上がりそれぞれが粒だち、光り輝いてゆくように思う。
この映像を見るとそのさまが見てとれると思うのだけど、いかがだろうか。
わたくしがごにょごにょ書いてきたいろいろより、これを見ていただいた方が早いかもしれないな。
30:15あたりからの『Dionysus』パフォーマンス。時間があるかたには本当は全編ご覧いただきたいしそれはそれでめちゃくちゃ書きたいしなんならこの楽曲に至るまでの流れとか『Dionysus』の全体とか個人それぞれに言及したいんだけど、ひとまず、JIMIN氏に注目していただけたら。
JIMIN氏は最初の着席位置が、客席から見て右から2番目のかたです。最後の座り位置は1番右。
ハ〜〜〜〜〜すげえ〜〜〜〜〜〜〜〜。筒。筒じゃない?このJIMINさん、めちゃくちゃ筒じゃない?どうです?
自分を使って音楽を表現するのではなく、なんだか音楽そのものになっていくように見える。
ちなみにV氏のことは鏡なのでは思っています。いや筒だろうが鏡だろうがなんだろうが全員エグすごいことは言うまでもなくです、なんですが。
あとこれも貼っておこう……ド筒なので……。
筒すぎ。
って書いてるけど、筒って、まじで、なに?????ぜんぜんわからんぜ。あーあ、ほんとにおもしろいなあ。おもしろいしなんもわからん!だって田中哲司とかって筒以外の演技体とかスキルとかもすげーやべーからさもうほんとイヤんなっちゃうナ〜……
……みたいなことを日々考えている俳優わたくし平野鈴の主演作がこのゴールデンウィークに上映されます!!!!!!!!!!!!!宣伝ダ!!
2022年4月30日(土)〜5月6日(金)、池袋シネマ・ロサにて
『僕の一番好きだった人』
脚本・監督・編集:上村奈帆
出演:平野鈴、長谷川葉生、西山真来(劇中絵出演)
この作品をつくった当時は「筒」という言葉にまだ辿り着いていなかったけれど、探していた状態はそこにつながるものでした。
上映期間中にはトークイベントなども行う予定です。
詳しい上映時間などはこれから発表になると思います。わたくしのTwitterでもお知らせしていきますので、ぜひチェケしていただけたら。
この作品そのものについてもいろいろ書き散らしたい気持ちはありますがまずは、ぜひ、ご覧いただけたら嬉しいです。
お待ちしております。
筒ねえ。まあ、明日になったら急に「いや筒とか違くない?」って思うかもしれないしな。
明日は明日の風が吹くっていうし。
ア!よかった〜、ちょっとは吹くっぽい。風。
平野鈴(ひらのれい)
俳優。
主な出演作は、濱口竜介監督『親密さ』(劇中劇演出も担当)、染谷将太監督『シミラー バット ディファレント』、上村奈帆監督『僕の一番好きだった人』など。最近にはbutaji『free me』のMVにも出演。演劇もやります。
当初は映画『Coda コーダ あいのうた』について書き始めていたのになんだかんだあって筒のことを書いてしまい、?、となりました。
Twitterアカウント:平野鈴|Rei Hirano (@reihirano01) | Twitter