Web ZINE『吹けよ春風』

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謎のお菓子と、メスティンで作るシーチキンペペロンチーノ(仲井 陽)

 天馬フレークというお菓子をご存じだろうか。
 小指の先ほどの大きさの薄い揚げ菓子で、形は馬のひづめのような切りかけのある楕円形、色は白く、食感はサクッと軽い。和紙を捩じったような包み紙に入っていて、きめ細かい砂糖のような粉がまぶされ、口に入れると甘塩っぱい味が尾を引き、あとひとつ、あとひとつと際限なく手が伸びてしまう。ハッピーターンの魔法の粉なんか目じゃないくらい麻薬的で、子供のころ大好きなお菓子だった。

 最近、ふとしたことから思い出し、そういえばあれはどこが出してるどういったお菓子だったんだろうと調べてみようとしたところ、なぜかいくら検索しても出てこない。
 何十年も前の記憶だから曖昧なところも多々あるのだが(表記が『天馬』なのか『テンマ』なのかとか、スナック菓子の類なのかそれとも和菓子なのかとか、ちょっと落雁とかその辺の和菓子とごっちゃになってる部分もあるかもしれない)、それにしても何一つかすりもしない。
 友達に訊いてみても皆知らないと言うし、そうかそうか地域差か、関東の人間は四角い雑煮を食うからなと、実家にLINEしてみても、そんなものは見たことも聞いたことも無いとすっとぼけた孔明のスタンプが返ってくる。
 こんなことがあるんだろうか。この情報化社会で、鼻歌からBorn Slippyすら検索出来てしまう世の中で、お菓子の正体ひとつ分からないなんて。てっきりケンミンショーあたりで、「うそー、東京の人これ知らないんですか? えー、ありえーん」とジャージ姿の中学生たちが口を揃えて言うような、地方の製菓会社が作っているその地域では有名なお菓子の類だと思っていたのに。
 自分一人だけ違う世界の記憶を持っている気分だ。知らないうちにパラレルワールドへ迷い込んだのかもしれない。それとも夢が過去に取りついてありもしない記憶を生成したんだろうか。いやでもしかし、あの薄くてざらついた包装紙を解く感触、粉が零れないように少し息を吸いながら口に入れ、たまにむせつつサクサクと嚙み砕く心地良さ、それを目の前に置かれた麦茶で流し込もうとして、粉まみれのテーブルに気づいてびっくりしたことなど、今でもありありと思い浮かぶというのに。

 天馬フレークはいつも祖父母の家に置いてあるお菓子だった。両親の仕事の都合と自分自身の体調の問題もあり、小学校の低学年までの間、私は週四ペースで父方の祖父母の家に預けられていた。まだそのころは祖父母も働いていたので、日中の面倒は主に曾祖母が見てくれていた。
 曾祖母は95歳まで生きた人で、記憶の中にあるのは薄くなった白髪を垂らし、綿麻の浴衣を着崩して骨ばった皺だらけの肌を露出させながら縁側で団扇を扇ぐ姿だ。子供心に、掛け軸とかに描かれている鬼と似ている、と思うこともあった。
 基本的には穏やかで柔和な人柄だったと記憶しているし、紛れもなく私にとっては優しいお婆ちゃんであったが、しかし、10歳にも満たない子供が90幾つの老人の本質を捉えられるわけもない。家族に訊くと、彼女はなかなか苛烈な人だったらしい。やんちゃだった子供のころの父をベルトで縛って蔵に何日も閉じ込めたり、祖父母の結婚に最後まで反対し、いわゆる嫁の立場となった祖母とは死ぬまでろくに口を聞かなかったり、曽祖父の指が一本欠けていたのは愛人発覚騒動があった際に極道の掟さながら詫びで詰めさせたという逸話もあったりなかったりした。
 ただ、歳を取って丸くなったのか、四世代まで隔たると慈愛の情が湧くシステムなのかは分からないが、印象に残っているのは、そうやって団扇をゆっくりと動かしながらこちらに向ける慈しむような眼差しと、やたら言っていた「かわいやー」という口癖だ。
 当時病気がちだった私は、祖父母の家に行くとよく床に転がってはお絵描きをしていた。何に影響を受けたのか分からないが、ひたすらグリフォンとかペガサスとか幻獣の絵を描きまくっていた記憶がある。そうしていると、曾祖母が「そんなダラんてーにやっとってえらなったらばらやぞ。少し休んまっし」と呪文のような言葉と共に台所から籠一杯に入った天馬フレークを持ってきてくれるのだった。画用紙から顔を上げて見た曾祖母の笑顔と鉛のような冬の北陸の空の色をよく憶えている。

もし仮に曾祖母と夢の中ででも会えたなら、天馬フレークの詳細を、せめて入手先だけでも訊いてみたいものだけど。でもきっと、なんか呪文みたいなキツイ方言であんま聞き取れないんだろうな。

 と、ここまで書いたところで進展、というか急展開があった。

 結論から書くと、天馬フレークという商品は存在せず、曾祖母が生み出したオリジナルのお菓子の可能性が高い。
 昨日、親が施設へ祖母を見舞ったついでに訊いて来てくれたのだが、曰く、私のやってくる日が近づくたびに、彼女は台所に立って何やら揚げ菓子のようなものを作っていたそうだ。ただ、関係がアレだった祖母はともかく、祖父にも食べさせることは決してなく、作るときもどこかコソコソと隠れるようで、材料やレシピなんかも分からないらしい。なるほど、だからググっても出てこないのか。

 と、ひとつ謎が解けたところで、また別の疑問が浮かぶ。なぜそれを和紙で個包装し、天馬フレークという名前まで付けて、さもちゃんとしたお菓子のように装ったのか。
 まるで自分が作ったと悟られたくないかのように。

 そもそも天馬フレークを思い出したのは、Twitterで回って来た画像がきっかけだった。『春になって野草や山菜が芽吹いてきたけど、有毒なものには気を付けて』という注意喚起で、その画像に写っていた植物の種子が、色の白い、小指の先ほどの大きさの、馬のひづめによく似た形だった。
 弱い神経毒があるらしく、昔は堕胎や口減らしなどにも使われたそうだ。『子供が口にすると死ぬこともあるので』とRepがぶら下がっていた。

 今ではピンピンしている私だが、持病のせいである時期までは大人になってもまともな生活が送れるか分からないと言われていた。
 そんな曾孫を、曾祖母はどんな思いで見つめていたのだろうか。よく山菜取りに行っていたという話だから、毒草のことを知らなかったはずはない。むしろ知っていたからこそと考える方が自然だろう。まともに生きられない子ならいっそのことと? 大好きなペガサスの名前を冠した『ちゃんとしたお菓子』ならあまり疑わず、バクバク食べると考えた?(実際アホみたいに食べていたのだが)
 曾祖母の口癖であった「かわいやー」は、可愛いという意味ではないらしい。昔の方言で「可哀そう」という意味だそうだ。
 さいわい私は何がどう作用したのかは分からないが、何事もなく、というか、むしろ人並みに健康に育った。しかし特に問題はなかったとはいえ、今更何十年も前に死んだ人間のことで心を乱されるとは思わなかった。

 と、まあ、四月の始まりの春も盛りの日にこれを書いているのだが、全く相応しくない内容となってしまった。馬のひづめの形は桜の花びらに似ている、とこじつけることもできなくはないが、なんかゴメン。
 お詫びと言ってはなんだが、最近ハマっている『メスティンで作るシーチキンペペロンチーノ』のレシピを記そうと思う。天馬フレークと比ぶべくもないが、なかなか美味しいはずです。あと、ザルも鍋も皿も一つで賄えるので洗い物が劇的に出ません。

 

 

【材料】

にんにく 二欠けくらい

オリーブオイル

唐辛子

シーチキン 一袋

味の素

 

 

1・にんにくは超大きめの一欠けか普通サイズの二欠けを微塵切りにします。たっぷりあった方がおいしいです。

2・メスティンににんにくが浸るくらいのオリーブオイルを入れ、塩を4、5振り(ペッパーミル式での換算なので容器によって調整してください)し、超弱火でフツフツさせつつも決して焦げないように揺すりながら二分超煮ます。にんにくの風味をオリーブオイルに移すためなのですが、焦げると風味が死にます。

3・次に唐辛子と二つに折ったパスタを入れ、パスタがくっつかないように追いオリーブオイルを軽く回しがけ、混ぜます。

4・水をメスティンの7割か8割くらいのところまで入れ、そこにシーチキンと、また塩を4、5振り、味の素を2,3振り入れて混ぜます。(ここでは茹で時間が9分のパスタを使っているので7,8割の水量ですが、もっと少ない茹で時間のパスタなら水量は少なくなると思います。トライ&エラーで頑張ってください)

5・中火にかけ、(9分のパスタなので)9分茹でます。

6・パスタの茹で時間が過ぎたら、火にかけたままグルグルかき混ぜます。すると、スープパスタのようだった汁が麺に吸収され、ほどよく無くなっていきます。汁が多少残っていた方がジューシーで美味しいので、麺が軽くメスティンに引っ付き始めたらすぐに火を止めます。

7・召し上がれ。



 

 

 

仲井 陽(なかい みなみ)

アニメーション作家/脚本家。Eテレ100de名著やグレーテルのかまど等のアニメーションを作ったり、テレビドラマの脚本を書いたりしています。タヒノトシーケンスという演劇をやったり、小説を書いたり、主に物語を作ります。謎の団体ケシュ ハモニウム主宰・ケシュ#203所属。

https://kesyuroom203.com/roomnumber203

https://twitter.com/minamiGIGA