通話スペースの空気は淀んでいる。こんなところで、楽しそうに電話をする人間はいない。私以外の2人も、何やら神妙な面持ちをしていた。
自動販売機の不味そうな菓子パンは、賞味期限がやたらと長くて不気味だ。私は相手に一言お礼を言い、通話を終わらせた。
病室に戻ると、みーのお母さんが、布団が片付けられたベッドを指先で撫でていた。私に気が付くとすぐに視線を上げる。
「なっこちゃん、もういいのよ。私一人でできるし、バイト行ってもらって」
「大丈夫です。代わり、見つかったので」
「最後まで、迷惑をかけるわね」
そう話す彼女の顔には、数日前とは別人のような疲れが浮かんでいる。この一年、ずっと疲れていたようには見えたけど、今日は何かが違う。こんな顔を見なくてはならない日を、どこかでずっと恐れていた。
あの子が寝ていた布団がなくなった病室は、すっかり匂いが変わってしまった。そんな些細なことに気が付くとは、自分でも思わなかった。もちろん、わざわざ口にすることはない。
お母さんは力なく微笑み、「ありがとうね」と一言だけ呟く。
その横顔が、みーに似ている。この人も20代の頃は、もう少しつり目だったのだろうか。みーも歳を重ねていたら、こんな顔になっていたのだろうか。
おばさんになっても、私たちは二人でやっていただろうか。
「お母さん、ぜんぜん休んでないですよね。大丈夫ですか?」
「休まず動いてるほうが、楽なのよ」
「……そうですか」
「これからは、どうするの? 続けるの?」
「きっぱり辞めます。決めてたんで」
みー無しでは続けられない。それは、みーの病状を聞いてすぐに覚悟していたことだった。
「もともと、みーに誘われたから始めたことですしね。私みたいなクソ真面目の人見知りを選んで、引っ張り出してくれた」
高校時代。テキトーに赤本を読んでテキトーな道を選ぼうとしていた引っ込み思案の私を、みーが見つけた。
まだ『みー』ではなく『美穂子ちゃん』と呼ぶのが精一杯の関係だったあの頃、みーは突然私を誘った。
「あたしくらいめちゃくちゃな人間には、あんたくらい真面目な人間が必要なのよ」
それがあの子の言い分だった。
誰かに求められることなんて初めてだったから、嬉しかった。真面目が武器になるのなら、ただ真面目に美穂子ちゃんの隣にいてみようかな、なんて、簡単に口説かれた。もともと、憧れていた部分もあったと思う。みーは人気者なのに、クラスの上位グループに属していないところも、カッコよかった。人を集めるのに、群れを成さないのだ。
夜のコンビニの明るさにふらっと吸い寄せられるように、軽い気持ちで足を踏み出した。一度も寄り道してこなかった私が、ただ一つ選んだ買い食いが、みーだった。こんなに大きな買い物になるとは、思いもしなかった。
私にとって絶対的な指標だったあの子。
私は今、そのお母さんと二人で病室にいる。あの子なしで。
「……美穂子が入院してから、1年。頑張ってくれたね」
この1年間を思い起こすと、苦笑いしか出ない。
「誰だっけ?」「見たことある気がする」「かわいそうに」「どこまでやれんの?」
自意識過剰な私は、集まる視線に数多の言葉を聞いていた。
はいはい、すみませんね、私一人で出てきてしまって。面白くない上に、卑屈な私。
「じゃない方」という言葉があってよかった。それはヘラヘラ自己紹介をする私にとっての、お手軽な肩書だった。
「『ビジパー』は、みーでもってたって、思い知った1年でした」
「……そんなことないわ。なっこちゃんじゃなきゃダメだって、よく言ってたもん」
お母さんの口から聞く、私が知らないみーの言葉は嬉しかった。
でも、みーは買いかぶり過ぎだよ。
私なんか、所詮みーの添え物だったんだから。あなたの才能を、ただただ横で見ていることだけが、私の喜びだったんだから。それだけが、続ける理由だったんだから。
感情が湧いては消え、ふと我に返る。
一番悲しいのは、ひとり娘を亡くしたみーのお母さんのはずだ。
「……荷物、車に運びますね」
「ええ、ありがとう」
床に積み上げられたダンボール箱のひとつを持ち上げ歩き出す。
この1年間、みーがいた病室。今はもう、ただの405号室。さようなら。
その時ふわっと、懐かしい匂いがした。ダンボールの中からだ。私があの子に突っ込んだ時、ふわっと香ったあの匂い。
「香りくらいは華やかにね」なんて、そんな風に話してたあの匂い……。
匂いに驚いた私は、何にもない病院の床で足を滑らせた。前につんのめるようにして、マンガみたいに転んだ。ダンボールの中身が飛び出して、床に散らばった。病室には似合わないそれらを見て、私は言葉を失った。
私が一番親しみを感じるバカバカしさ。それぞれが「全力でくだらないことやってます」と訴えている。
コントで使うその小道具たちは、見たことのない新しい形のものばかりだった。
「なっこちゃん! 大丈夫?」
「はい……これって……」
「……なっこちゃんに見つからないように、病室で作ってたのよ。100個ネタ作って、あなたを驚かすって」
「そうだったんですか……」
みー、こんなヘンな小道具で、どんなコントをしようと思ってたの。
自分の命が助かるかわからない状況で、どうしてこんなにバカバカしいものが作れるの。
何がそんなに、みーを動かしたの。
目の前が滲んでいく。病院に入るときには、絶対に泣かないと決めていたのに。いつだって、それだけは唯一守れていたのに。真面目に決めたことを守るのが、私の取り柄なのに。
みーのお母さんが私に歩み寄る。ごめんなさい。一番泣きたいのはあなたですよね。
お母さんは、私そばでかがみ、横に転がっていた紙製の手作りマスクを手にとった。それをかぶって、立ち上がる。
宇宙人かカマキリかわからない奇妙な造形。小さくてずんぐりした体型が妙にマッチして、舞台上では出オチが心配なくらいの面白さ。
マスクを取ったら、汗だくのみーが笑ってくれそうな錯覚を抱いていた。それくらい、お母さんとみーは似ている。
「これかぶって、なんだかブツブツブツブツ言ってたわ。こんな感じで。ブツブツ……ブツブツ」
頭を振っておどけて、みーの真似をしてくれる。みーのあの感じ、暗く考えがちの私を助けてくれるあの感じは、絶対にお母さん譲りだ。
私は涙を拭いた。あの子と一緒にいた時のように、自然に笑ってしまった。
「みー、いつも被り物かぶってネタ作ってました」
「なんでもカッコから入るからね、あの子は」
「とりあえず、作ってから考えるんですよね。非効率すぎ」
いつでも、みーが元気をくれた。あの子だけが私の続ける意味だった。
みーがいない私に、芸人と名乗る資格があるのか。自信はない。
それでも。
「……私、もう少しやろうかな。『ビジネスパートナー』の……『ビジパー』のなっこで。みーが目指してたところに、ちょっとでも近づけるように」
マスクの下で、笑ってくれているのが分かった。
「そうだ! なっこならできるぞ!」
声までそっくりで、みーに言われているみたいだった。
私は立ち上がった。
ふたり分の想いで、ひとりでやってみる。
ダメならダメで、それはそれで。
私、前よりちょっと、ざっくりと、生きていけるかな。 (了)
諸橋隼人
脚本を書いています。執筆作品はドラマ「アイゾウ 警視庁・心理分析捜査班」「世にも奇妙な物語」「ひともんちゃくなら喜んで!」、アニメ「サザエさん」「ドラえもん」など。