Web ZINE『吹けよ春風』

Web ZINE『吹けよ春風』と申します🌸

左腕のダッコちゃん(とんこつ一番豚しぼり)

去年の暮れ、腕を痛めた。
その日、仕事を終えて更衣室で着替えようとすると、左腕に激痛が走った。
動かそうにも、腕が全く上がらなくなっていた。
一度気づいてしまうと、痛みというのはどんどん増していくものだ。
痛い。
動かせない。
しかしいつどこで痛めたのか心当たりがない。
四十肩?
こんなに急に?。
霊が取り憑いた?
左腕だけ?
ダッコちゃん霊?
さっきまで普通に仕事をしていただけなのに。
何とか着替えを終え、マスクの下に引きつった笑顔を隠して同僚に挨拶をし、職場を後にした。
痛い。どんどん痛い。
年末の街の忙しなさが痛い。
客引きをしている居酒屋スタッフの笑顔が痛い。
駅に向かいながら、試しに左腕を軽く上げてみる。
さっきは全く上がらなかったけれど、気のせいかもしれない。
腕を上げる。痛い。気のせいじゃない。
くそ、痛みめ。
憎々しいほど痛いが、この痛みと向き合う勇気がない。
急な老化現象なのか、腕に目に見えない何者かがひっついているのか。
どちらにせよ怖い。
結局その日は、普段めったに立ち寄ることのない地下街で、見知らぬ辛いソースを買い、何人で食べる想定なのか分からない特大サイズの異国のポテチを買い、変な色の激安マスクを買って家に帰った。
いつもと違うことがしたかった。
非日常の世界に身を置いて腕の痛みを忘れたかった。

しかし、帰宅した後も腕は痛み続けた。
原因不明の謎の痛みを抱きしめながら、その日はいつもより夜更かしをした。
眠るのが怖かった。

翌日、確実に前日より増している腕の痛みに気づかないふりをして普段通りに働いた。
時々、力こぶから肩にかけて激痛が走ったが、その時はカッと目を見開いて顔全体に力を込めてみた。
そうすると腕の痛みが一瞬和らいだ(気がした)。
周囲の人は、私が突然びっくり顔で身体を硬直させているのを見て不審に思ったかもしれない。

夕方、これはもう気づかないふりは無理だと観念して、整形外科へ向かった。
初めて受診する病院だった。
年季の入った待合室で緊張しながら順番を待った。
「これは四十肩ですね」
「おや、肩に誰か乗っていますね」
「しばらく週末の草野球はお休みですね」
様々な診断結果を想像して恐怖に震えてくる。
ちなみに草野球チームには入っていないのでその心配はない。
名前が呼ばれ診察室に入ると、押しの強くない大村崑のようなおじいちゃま先生が柔和な笑顔で迎えてくれた。
昨日訪れた突然の痛みを説明する。
心当たりを聞かれたが、残念ながらありませんと答えた。
原因が分かっていれば痛みを無視して一日寝かせることもなかったし、地下街でおかしな買い物をすることもなかった。
おじいちゃま先生は、私の腕をあらゆる角度にゆっくりと優しく動かして、これは痛い?と確かめた。
腕を床に平行に上げる時と、脇をしめたり開いたりして「ウキウキ」みたいに動かす時が特に痛かった。
気軽に踊れない身体になってしまった。
おじいちゃま先生はレントゲンを撮って見てみましょう、と言って私を優しく別室へいざなった。
左腕にダッコちゃんが写り込んだらどうしよう、とそればかりが気がかりだった。
一度待合室へ戻り、しばらくして再び診察室へ。
震える手で扉を開けると、おじいちゃま先生は優しい笑顔で言った。
先生「肉離れーションですね」
私「え?」
先生「上腕と肩の筋肉が挫傷していますねえ。何か重たいものを持ったりしませんでしたか。おそらくその時に左腕に負荷がかかって、肉離れしたんですね」
最初に聞こえた「肉離れーション」とは一体何だったのか分からぬまま、私はひとまず安堵した。
四十肩でも、ダッコちゃん霊でもなさそうだ。
問題はその後だ。
何か重たいもの?
記憶がない。
どちらかというと筋肉質で、腕の筋力には自信があった。
仕事で重たいものを持ったり、運んだりする場面は多数ある。
昨日一日の仕事を思い返してみた。
すると、もしやあの時か…?と思い当たるものが一つあった。
普段もこなしている、何のことはない仕事だった。
自分の筋肉を過信して、変に力を抜いてしまったのかもしれない。
おじいちゃま先生にその仕事の話をすると、「うん、労災だね」と優しく笑った。
情けなかった。
いつもの仕事で自分の不注意による怪我をして、職場に労災の申請を出すことになった。
しばらく仕事もセーブしなければいけなくなるだろう。
「レントゲンにダッコちゃんの霊が写ってしまったので少しの間休みます」
と言えたらどんなに楽だったか。
おじいちゃま先生はスチックスミルという可愛い名ついたスチック状の塗り薬を処方してくれ、仕事も無理せずなるべく安静にねと言った。
私が診察室の扉を閉めるまで、ずっと目を見て見送ってくれた。
待合室のベンチに座って処方箋を待っていると、小学生くらいの女の子と母親らしき二人組が入ってきた。
女の子が脚を痛めたらしい。
二人は私の横に並んで座った。
座るや否や、母親がスマホを取り出し、電話を掛けはじめた。
あら、病院で電話?とも思ったが、娘の怪我を家族に知らせるのかな?と思った。
電話が繋がったらしく、母親が話しはじめた。

母親「もしもしパパ? ママですけど。いま冷蔵庫行ける?」
私(心の中で)「(ん…? 冷蔵庫…?)」
ママ「あのね、冷蔵庫にアボカドがあるの。野菜室のとこ」
私「(野菜室…? アボカド…?)」
ママ「袋に入ってて。そうそれ。それ出しておいて」
私「(アボカド何に使うんだろう…)」
お願いしまーす、と高らかに言い、ママは電話を切った。
娘の怪我も心配だけど、夕食で使うアボカドが冷えて固くなりすぎるのも心配なのだろう。
何だか、力が抜けた。
この病院にしてよかったと思った。
肉離れーションをして、よかった。